ロンドンのササビーズで競売にかけられたベートーヴェンの遺髪から、通常の百倍の“鉛”が検出されたというニュースが、1994年に世界の注目を浴びました。彼の生きた時代には、ワインの醸造過程で甘味料として加えられていた物のなかに鉛が含有されていて、ベートーヴェンは大好物のワインを飲みすぎたことにより鉛中毒になってしまったのではないか、と推定されています。鉛中毒はスペイン語で“Saturnismo”と言い、この言葉は“Saturno(土星)”に由来し、“鉛=土星”の連想は錬金術から来ています。
さて、この神経系障害や聴覚障害を引き起こす重金属中毒の一種である鉛中毒は、19世紀までは画家の職業病でもありました。1840年までチューブ入りの化学合成の油絵具というのは存在せず、絵具は画家や弟子によって調合されていていました。ピグメント(顔料)は鉱物や植物に由来する物でしたが、その鉱物の中には、鉛など人体に有害な物もあり、画家の中にはそんな絵具を扱っているうちに、中毒にかかってしまう人もいました。
鉛中毒にかかっていたとされる画家の一人がスペインを代表する芸術家「ゴヤ」です。彼は1792年に鉛中毒を患い、その後遺症として失聴してしまいます。それが原因で外部との意思疎通が以前のようにできなくなり、このフラストレーションが激動の18世紀~19世紀のスペイン情勢、スペインのフランス軍による蹂躙(じゅうりん)を目の当たりに見るというトラウマと相まって、彼の作品は、陽気なパステルカラーから、恐ろしい怪物の跋扈(ばっこ)する悪夢のような世界を描いた暗い物へと傾いていきます。
また、この鉛中毒にかかった人は代謝の変化に因り性格が攻撃的になってしまうこともあるそうです。ベートーヴェンとゴヤ、肖像画では眼差しが厳しくて人を寄せ付けない雰囲気を醸し出していますが、これは鉛中毒の影響なのかもしれません。