聖イシドロの井戸の奇跡

スペインバロックを代表する画家にアロンソ・カノという人物がいる。ベラスケス、リベーラ、スルバランに比べれば知名度では劣るものの、生前は画家としてだけでなく、彫刻家、祭壇装飾家、建築家としても大いに名を馳せ、宮廷に画家兼私室取次係(宮廷の要職)として招聘され、王室絵画コレクションの修復も任されるような名士だった(写真左)。

プラド美術館にはこのアロンソ・カノの描いた「聖イシドロと井戸の奇跡」という表題の絵が展示されている(写真中央)。これは、画面左側に後光の差した聖人イシドロが、右側に井戸が、中央にひざを地面についた一人の女性が彼女の右側にある井戸の淵に座る幼い子を支えている姿勢で配されており、幼児、女性双方、画面左にたたずむ聖人をまじまじと見上げている、という構成で、茶色を基調とした典型的なスペインバロック絵画である。

聖イシドロはマドリッド出身のカトリックの聖人で、街の守護聖人でもある。彼の姿を象った絵画や彫刻はマドリッドでよく見られる。耕作者イシドロと呼ばれることもあり、アトリビュート(絵画の登場人物を鑑賞者に特定させるために画家が持たす持物のこと。例・天秤、目隠し=正義の女神など)は、シャベル、大鎌、鋤、鍬などの農耕具や、牛に繋がれたプラウで畑を耕起している天使。マドリッドの地下鉄のマスコットの名前がイシドロなのは、任意につけられたのではなく、この聖人イシドロの名前に由来している。(写真右)

(左から)アロンソ・カノ、絵画「聖イシドロと井戸の奇跡」、マドリード地下鉄マスコットの”イシドロ”

【左】アロンソ・カノ、【中央】絵画「聖イシドロと井戸の奇跡」、【右】マドリード地下鉄マスコットの”イシドロ”

この絵が叙述する奇跡の物語に登場する井戸が、マドリッドの起源博物館(Museo de los orígenes)館内に今も保存されている。

起源博物館内にある「奇跡の井戸」は下部の写真のとおり(写真左)。井戸縁は煉瓦をモルタルで積み上げた環状のもの。半壊していることと、鉄の枠にメタクリル樹脂で目張りしたテーブル状の覆いがしてある以外は何の変哲もない普通の井戸のようだ。中を覗いてみたが、水のある気配はない。側の壁に1790年にニコラス・ホセ・デ・クルスによって叙述されたストーリー「井戸の奇跡」の引用のカッティングシートが貼られている(写真右)。そこには、この様な内容が記されていた。

「イシドロ宅には低い井戸縁の井戸があった。妻マリアがある日、その井戸の側に立っていると、腕に抱えていた子どもが突飛に動き、腕から滑り落ちて、井戸の中に落ちてしまった。それはとても深い井戸だった。程なくイシドロが畑仕事から帰ってきて、妻から自分の不在中に起きた悲劇を聞いた。イシドロとマリアは井戸の淵にひざまずいて、神に祈った。祈りをささげるうちに、なんと、井戸の水の量が増加し始め、井戸の水面を持ち上げ、水面はやがて井戸縁の高さまでやってきた。その水面にはなんと、井戸に落ちて死んだはず子どもがニコニコしながら座っていたのだ。イシドロとマリアの祈りは天に届き、彼らの悲願が聞き届けられ、子どもは元気な姿で両親の元に戻されたのだ。」

長年敬虔なカトリック国であったスペインには聖人や奇跡にまつわるエピソードが沢山あり、聖遺物を展示する寺院や博物館も多い。毎年決まった日に液体化する聖人の血液や、キリストの聖杯と信じられている杯など枚挙に暇がない。そういう伝説を調べたり、霊験あらたかな物品を見て歩くのもスペインの楽しみ方の一つだと思う。・・・もしかしたら何かしらご利益にありつけるかもしれない。

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