世界最高の14歳となった男の言葉

将来を嘱望されながらも、プロフェッショナルになれなかった選手がごまんといれば、その才能を万人に認められながらも、開花できず、想像したようなキャリアを過ごせなかった選手も、星の数だけいる。

ハシント・エラもまさにその1人だ。

赤道ギニア出身のスペイン国籍を持つサイドアタッカーだった。彼は19996年のナイキ・プレミア・カップで、世界最優秀選手に選出された。エスパニョールに在籍していた黒人アタッカーは、13-14歳のカテゴリーで、世界でナンバーワンのプレーヤーとなった。エスパニョールBに所属し、3部から2部Bへの昇格を果たし、ユースのカテゴリーでは2001年にコパ・デル・レイを制覇した。U-19スペイン代表にも選出され、下部組織ではまさにエリート街道を邁進していた。誰もプロフェッショナルとして成功すると思われたが、この下部組織が選手のキャリアとして、最も彼が輝いた時代だった。

ハシント・エラは2001-2002シーズンにイングランドのサウサンプトンに所属し、出場機会を得ることができず、スペインのエルクレスにレンタル移籍したが、怪我してしまう。その後はサウサンプトンに戻り、翌シーズンにアラベスB、スコットランドのチームなどを渡り歩き、最後はスペインのクラブを転々とし、26歳で引退する。

14歳で世界最高の選手に選出されたアタッカーは、スペイン1部の舞台に1度も立てず、30代になる前にスパイクを脱いだ。現在は教育者として仕事するハシント・エラは、2015年3月にスペイン紙「スポルト」のインタビューに応じていた。エスパニョールBにいた時にあるピッチでは人種差別のコールや野次を浴びせ続けられ、それが後にスペインを離れ、イングランドに行く動機のひとつだったと語っている。

彼はトップチームに最も近づいた17歳の頃をこう振り返った。

「17歳の時に毎週木曜日はエスパニョールのトップチームでトレーニングしていた。だけど、僕はまだ準備できていなかった。何かが自分に足りないのは明らかだったし、それはトレーニングを多くこなして分かった。なぜならフットボールは誰もあざむくことはできなからだ。そのいいチームに入って、トレーニングすれば、最終的に自分が周囲の半分もできていないことに気づく。もしくは他の人よりも優れたものがあると分かる」

ハシント・エラは「19歳の時に24歳でリーガ1部にいなければ、引退しようと考えていた。そして僕は26歳まで耐えた。僕は3部のチームにいて、3部でプレーするのならば、普通の人にように働くことにした。32歳から仕事を始めたくなかったし。そして電車の乗組員になるために仕事を辞めた時に、もうプレーは終わりだと自分に言ったんだ」と引退を決めた。

なぜフットボールのプロフェッショナルでもエリートになれなかったのか。そう質問を受けたハシント・エラはこう返答した。

「人々は僕は運が悪かったという。それは違う。人々に聞いてみてくれ。6つの街に住んだことがあるか。フットボールをプレーして多くのお金を稼いだことがあるか。僕は自分が到達した場所が、自分のいるべき場所だったんだ。だけど、僕を不運とは呼べない」

タレントがある若い選手が大成しないと、いい指導者やチームに巡り会えなかった、あの怪我さえなければといったことを言われがちだが、ハシント・エラはそれを否定する。

「自分が到達した場所が、自分のいるべき場所だったんだ」

輝いた下部組織から期待されたほど決して華麗ではなかったプロフェッショナルな現役時代と送ったハシント・エラだからこそ、このコメントは説得力を持って響いてくる。

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